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講演会・イベント

元パラリンピックメダリスト伊藤真波さん講演会『あきらめない心』

2019年08月31日

今回の講演者は、北京・ロンドンパラリンピックの競泳選手日本代表として見事入賞を果たし、バイオリニストとしてもアメリカのテレビ 「The World’s Best」にも出演され世界中に勇気を与えてつづけていらっしゃる伊藤真波さんです。

伊藤さんは、静岡県出身の田舎娘3人姉弟の真ん中でした。

バイクが好きな父 習い事を沢山させた母。水泳・バイオリンを含む習い事の数々。

習い事は小学校6年生までは続けるという約束。といっても教育ママというタイプではなく、あなたの好きなようにしなさい。お母さん応援しているからといつも賛成してくれていたそうです。勉強嫌いで毎日空っぽのランドセルで登校した小学校。教科書はいつも友達に見せてもらっていたのでついに先生から連絡が来てしまった。怒られると思いきや母が先生にいった言葉は「うちの子、困っていますか?」「いいえ」「じゃあ放っておいてください」と何でも好きなようにやらせてくれたそうです。

心が荒れていた中学時代 よく出る言葉は「マジめんどくさい。マジうざい。」制服もジャージも上手に着られず「一所懸命・真面目」は格好悪いと思っていた。中学2年生の頃ある先生に出会い、その考えは一転しました。教師の夢をあきらめきれずサラリーマンから転身し、その思いを熱く語った村松先生。そのとき「ダサい」と生徒たちに馬鹿にされていた先生が輝いて見えた!「先生のようなキラキラした一生懸命な大人になりたい、看護師になりたい」と心に決め、勉強をがんばり始めた。もともと看護師になりたいと思ったのは親戚・家族に医療従事者が一人もおらず、子どもの怪我や不調にあわてる母の力になりたかったからだ。そして看護科のある高校へ進学し、その後、看護専門学校にも通い始めた。

18歳の時、父のバイクに憧れ、バイクに乗りたいと考え始めた。まずは父に相談。バイク好きということもあり、すんなり承諾を得たが、母は違った。「女の子なのにバイクなんてなに考えているの?怪我したらどうするの?責任取れるの??」いつも応援してくれていた母がはじめて反対した。その反対を押し切り、母とケンカ状態のままバイクに乗り始め、通学していた。2週間後に成人式を迎えようとしている看護実習最終日の通学途中で事故に遭う。トラックと衝突。右腕がタイヤにからむ状態で轢かれてしまう。母にすぐ電話をする。「ごめんなさい。事故はおかあさんのせいじゃない。私が悪い。」と話すも顔にも損傷があったため言葉にならなかった。病院に運ばれ、包帯ぐるぐるまきにされ、たくさんの点滴やチューブ・機械・・・重症患者が入る集中治療室に入る。右腕の悲惨な状態をきき、切断を促されるも、「どんなつらい治療にも耐えるから腕だけはなくさないで」と懇願。右腕の砂や車のオイルなどを医師がタワシをもってゴシゴシ砂利と油を掻き出す壮絶な治療。「お母さん助けて!!」と泣き叫び、動かないよう体を押さえつける看護師を蹴り落とすほどのつらい治療が続いた。両親はその声を聴きながら治療室の外でずっと待ち続けた。顔の損傷も激しくパズルのように顔の写真を見ながら何度となく手術を行った。自分の状態を受け入れることができず手当たり次第のものを投げつけたりし、両親に八つ当たりばかりしていた。それをじっと耐え続けてくれた両親だった。祖父母から買ってもらって用意してあった着物もむなしく成人式は欠席し、病院に引きこもって過ごした。祖父はとくに孫の事故・姿を受け入れることができず病室に入るも立ち尽くし、最後に小さく「ガンバレ!」という言葉を残し、帰っていった。轢かれてしまった右腕からばい菌が入り、血液を通って身体に循環してしまうと生命にも影響を及ぼす。これまでずっと黙っていた母が重い口を開く。「仕事しなくていい。お父さんお母さんとずっと一緒にいよう。「右腕切ってください」って自分で医師に言いなさい。責任を取るって言ったでしょ!」ただ泣き続けるしかなかった。ようやく医師に伝えるとすぐに手術が決まり、右腕を失った。自分の姿に絶望し、何枚も鏡を割ってしまうほど自暴自棄になっていた。

その頃、看護学校の先生がきて、学校をやめるか続けるか選択することができた。やめざるを得ないと思っていたが、やめなくてもよい、看護師になるという道が開け、希望が見えてきた。片腕はだいたい2~3キログラムほどあり、失うとバランスがとれず、まっすぐ歩けなくなる。そのためリハビリが行われる。また義手も作ることになり、兵庫県のリハビリテーション中央病院に入院する。そこで自分より重度の患者やボールを奪うためぶつかり合い倒れても自力で立ち上がる車椅子バスケをみて、片腕のないことを言い訳に逃げてきた自分を恥じる。これまで隠してきた右腕をさらけ出してたたかう覚悟をし、リハビリも兼ねて始めたのが水泳である。看護師としても神戸百年記念病院で働き始め、院長に掛け合い、水泳選手としても羽ばたいていく。そしてパラリンピック日本代表として入賞を果たし、ようやく両親に心からありがとを言うことができた。現在、2人の子どもを育てながら日本中で講演活動をされている。

事故に遭い、父は自分が好きなバイクを手放し、娘の事故は自分のせいだと責任を感じ、母ももっと強く反対し、バイクに乗らせなければよかったと後悔している。祖父母はこれまでコツコツ貯めたお金を治療費にと渡してくれた。事故で両親や周りの人たちの心を傷つけてしまった。そして一生、親の世話になるのは親不孝。自立し、幸せに生きることが何よりの親孝行だと思い、周囲の人々の支えのもと、今の自分がいると仰っておられました。

とても素晴らしいお話しを誠にありがとうございました。お子さん2人もとてもカワイかったです。

合掌

  令和1年9月1日 園長 長谷川俊道

https://youtu.be/MYezcuVwUUA